人生は全部つながってくる!
萩原・ナバ・裕作(森林環境教育専攻)
子どもの頃から生き物や自然が大好きだったナバ先生。オーストラリアでエコツアーガイドをしていたナバ先生は、どのようにアカデミーにたどりついたのでしょうか?自分の人生を切り拓いてきたナバ先生の運命の出会いや、これからの野望を聞いてみました!
「ムツゴロウさんになりたい!」
――どんな幼少期だったんですか?
ナバ:埼玉の田舎で生まれ育って、近くにどぶ川や雑木林や田んぼがあったから、いつもそういうところで遊んでいた。とにかく生き物や自然が大好きで、虫とかヘビとかカメとか、いろんな生き物を捕まえるのが遊びだった。だから子どもの頃はムツゴロウさんになりたかったんだよね。小学校6年生のときに会いに行ったんだよ、ムツゴロウさんに。クマの絵を描いてもらったことを今でも覚えている。
――ずっと自然に関わる仕事をしたいって思っていたんですか?
ナバ:そう。仕事として真剣に考えはじめたのが大学生のとき。大学に入って、自然も好きだったけど、人と集まって何かをするのが好きだったから、みんなで海の家を経営したり、ミスコンをやったり、イベントばっかりしていた。でも2年の終わりくらいかな。就職のことを考えはじめたときに「そういえば俺ってなにがしたいんだったかなあ」って思ったんだよね。子どもの頃はムツゴロウさんになりたかったけど、でもムツゴロウは仕事じゃない。そこから、人と自然をつなぎたいと思って、どんな仕事があるのか探し回ったんだよ。当時はメールもSNSもないから、施設の掲示板や会報誌を見て情報を集めて、あとは友達に言いまくった。「動物、人、子ども、自然、そういうキーワードの仕事ってないかな」ってみんなに言ったら、情報をいっぱいくれた。3、4年生の頃はとにかくいろんなところに行ったね。熱帯雨林の保護プロジェクトや、ネイチャーゲーム協会、キャンプの団体、あと青森のマタギのところにも行った。
ナバ:就職活動をするつもりはなかったんだけど、「自分がやりたいことを企業の人に聞いてもらえるのは今しかないよ」って言われて、それではじめたんだよ。面接で「俺は子どもたちと自然をつなぐプロジェクトをやりたいから雇ってくれないか」ってよくわからない営業をしていた。企業もおもしろいと思ったらずっと話を聞いてくれたし、何回もご飯に誘ってくれたところもあった。NHKもそのとき受けていて、今でも覚えているけど、俺タバコを吸いながら面接を受けていたんだよね。ありえないよね。しかも、長期キャンプが終わってそのまま行ったから、でかい山用ザックを背負って(笑)。「今の『生きもの地球紀行』はつまらない。俺ならもっとおもしろくできる」って言ったら、「NHK本社に入ったらどこにまわされるかわからないから、専門のプロダクションに行けばいいんじゃない?」って言われたの。その時のアドバイスが後々効いてくるんだよね。
――まわりと同じような就活をしていなくて、不安になることはなかったですか?
ナバ:なんか自信があったよね。本当に昔から自然が好きだったし、子どもと遊ぶのも好きだったし、これしかないって思っていた。親からは大反対されたよ。どうやって食べていくの?とか、何のためにそんなことをやるの?とか聞かれて、大学生なりにいろいろ調べて、どの順番で話せばわかってくれるかなって考えて、一生懸命説明するたびに、どんどん自分の芯が出来てくるんだよね。同期は商社やテレビ局や広告代理店を受けていて、バンバン稼ぐ路線に行くわけよ。でも、俺はその道を選ばなかったし、みんなも「裕作はそうだよね」って応援してくれた。やりたいことがはっきりしていたし、情熱はすごくあったから、根拠のない自信があったよね。
ナバ:3年生のときにたまたま立ち読みしたBE-PALって雑誌に「自然の中のこんな仕事がしたい」って特集があったんだよ。野鳥の会レンジャーとか、自然保護観察会の指導員とか、いろんな人が紹介されていた中に「インタープリター」って言葉が出てきた。これは自分が探し求めてきたものに近いなと思って、「第1回インタープリタートレーニングセミナーをやります」って書いてあったから、すぐに電話したんだよ。そうしたら、ちょうどはじまったタイミングで「ごめーん!来年まで待ってね」って言われて、ガッカリした。しばらく経って、友達から「東京の奥多摩でカモシカの観察会があるから来ない?」って誘われて行ったら、なんと偶然にもインタープリタートレーニングセミナーをやっている小林毅さんが、カモシカの観察会の主催者だったんだよ。それが僕の師匠、コバさんとの出会い。
ナバ:結局、就職活動では自分のやりたいことができる会社が見つからなかったから、大学卒業後はフリーランスで環境教育の指導者をはじめた。ちょうどその年に、アメリカのインタープリターと交流する日米のトレーニングセミナーがはじまったの。コバさんや当時環境教育の最前線にいた人たちと一緒にアメリカに行ったら、ますます燃えてきてさ。それで翌年、コバさんに拾われたんだよね。そこから俺のインタープリター人生がはじまった。
――インタープリターってどんなお仕事なんですか?
ナバ:英語で通訳や翻訳って意味なんだけど、動物の痕跡とか歴史的な建造物とか、そういった目に見えるものを通して、メッセージを伝える仕事。例えば広島の原爆ドームだったら、戦争はやりたくないよねとか、アメリカの国立公園の場合は、なぜ国費を使ってこの自然を守り続けなければいけないのかとか。最終的なゴールとしてはその人の行動を変えていくことなんだけど、第一段階として、見たものや体験を通して心を揺さぶる。自然をテーマにやっている人が多いけど、歴史でも美術でも暮らしでもいい。
日本とオーストラリアを行ったり来たり
ナバ:コバさんに拾われて、奥多摩にある山のふるさと村で2年半働いた。当時は、日本の環境教育やビジターセンターの創成期で、やることなすことすべてが新しいアイデアや試みとして注目されるから、楽しくてしょうがなかった。でも、コバさんと一緒に行ったアメリカでのインタープリターとの出会いがずっと心に残っていて、「よし、アメリカに行こう」って決心したんだよ。当時、英語は全然できなかったんだけど、コバさんに「アメリカに行ってインタープリターになります」って言って仕事を辞めた。何の根拠もないんだよ?でも、語学学校まで決まっていたのに、なぜかビザが取れなかったんだよ。俺、相当怪しかったのかな。どうしようかなってときに、ふと思いついたのがエコツーリズムがさかんになりはじめたオーストラリアだった。オーストラリアはすんなりビザが取れて、いい国だな~って思ったよ。オーストラリアに行って、とにかく一生懸命英語の勉強をして、ケアンズの職業訓練校のエコツーリズム科に入った。そこでも真剣に実習をしていたら、コースディレクターの先生に「うちのツアー会社で働かない?」って誘われて、ちょっと働いたんだよね。レインフォレストの中でガイドをするいい仕事だったんだけど、永住権を持っていないから、社会的な立場は弱かった。悔しかったけど、留学ビザが切れるタイミングで日本に帰ることにした。
ナバ:日本に帰って、コバさんがまた誘ってくれたんだけど、なーんかしっくりこなかったんだよね。違う方法で人と自然をつなぎたいなと思って、ハローワークに行ったら「生きもの地球紀行」を作っているプロダクションの募集を見つけたの。NHKの面接で言われたことがつながったんだよ。おー!きたー!と思って、親知らずを抜いて口が開かなくなったことをおもしろおかしく書いて送ったら、こんなつまらない出来事をおもしろく書くやつは、おもしろい企画が書けるだろうって、採用してもらった。当時、海外のネタや撮影地を探したり、研究者とやりとりをしたりする「リサーチャー」として雇われたんだけど、合間を見つけては番組の企画書もバンバンも書いたんだよね。そうしたら、シロアリ塚の中で営巣する超マイナーなオーストラリアのインコの企画が通って、ロケに連れて行ってもらえた。そうしたらやっぱりオーストラリアっていい国だな~って思っちゃってさ。結局オーストラリアに戻ることにしたんだよ。
ナバ:今度はオーストラリアのエコツアーガイドになろうと思って、ちゃんと同じ立場で仕事をしたかったから、永住権を取りに行ったの。当時のオーストラリアは、小中学校の日本語教師の資格を取ると、永住権が取得しやすかった。先生なんてやるつもりはなかったんだけど、永住権を取るためにシドニーの大学院の短期集中コースに入って、見事、夢の永住権を取ったんだよね。実はその大学院に、俺とはちがって真剣に日本語教育を勉強しに来ていたのが、今の奥さん。永住権を取りにいかなければ奥さんにも出会わなかったし、感じるままに夢中になって一生懸命やっていると、不思議とすべてがつながってくるんだよ。
ナバ:永住権を取って、オーストラリアのタスマニア島でエコツアーガイドをしてたんだけど、前に働いていたプロダクションから「ライオンを撮りに行くんだけど、ディレクターをやらないか?」って連絡があってね。「ライオン!?いっちばん好きな動物じゃん!」と思って、二つ返事で日本に帰っちゃったの。だけど、撮影をしているフィールドはいいんだけど、日本に帰ってきた後の編集はやっぱり嫌なんだよね。それで仕事を辞めて、3度目は家族でオーストラリアに行った。エコツアーガイドをしながら、日本の番組企画を書いたり、撮影のコーディネートをしたりしていた。ツアーでまわっているといろんなおもしろい人やネタに出会えるし、日本で番組制作をしていたから撮影に必要な視点もわかる。オフシーズンは日本に戻って、コバさんのインタープリタートレーニングのお手伝いもしていた。すべてつながっているよね。
動物や子どもたちとシンクロする
――アカデミーに来たきっかけはなんですか?
ナバ:タスマニアにいたときに、コバさんから電話があったんだよ。「アカデミーって学校があって、週2回くらい授業すればいいみたいよ?」って。大学生のときは、インタープリターって仕事はほとんどの人が知らなかったから、職として認められていなかったものが、学校ができるって大きなターニングポイントだなって思ったんだよね。コバさんとも「いつか学校ができるといいよね」って話していたし。いいじゃん!しかもコバさんもいる!楽しく仕事ができるかなと思って、とりあえず2~3年のつもりで日本に帰ってきた。そしたら話が全然違う。授業は週2回じゃないし、コバさんはすぐ別の学校に行っていなくなっちゃうし。東日本大震災があって原発の問題もあったから、やっぱりオーストラリアに戻ろうと思って、家族で暮らす土地と家を探しはじめたんだよ。そしたら急に環境教育専攻の教員が俺ひとりになっちゃったんだよね。そのときの学生たちが卒業したら辞めようと思っていたら、またおもしろい学生が入ってきて、あれよあれよという間に16年経っちゃった。
――16年もアカデミーにいるのは、何が魅力なんだと思いますか?
ナバ:学生ひとりに対して、これだけお金と時間を費やしている学校って、日本一どころか、世界でいちばんかもしれないよね。自由に入れる森があって、木を伐って使うことができて、子どもも大人もいろんな人が来て、いろんなことが混ざりあって、こんなおもしろいところはないと思うな。それでいて、まだまだイケてないところがたくさんある。だからいるんだよ。大変なこともいっぱいあるけど、やっぱり子どもたちがいて、仲間がいて、学生もいて、人のつながりが広がったっていうのはすごく大きいよね。もっとやりたいこともあるけど、幸せだったな。
ナバ:あとね、動物や子どもとシンクロするのが好きなんだよ。言葉じゃないコミュニケーションで、流れというか波に乗るというか。動物だから本当に合っているかはわからないよ?でもシンクロしていると感じたとき、すごくビリビリッと来るんだよね。撮影のときも「あのライオンはどのガゼルを狙うかなあ」とか「ギフチョウはどの葉っぱにたまご生むかなあ」とか、そんなことばっかり考えていたの。自然の中に身を置いたり、その動物にフォーカスしたりしていくと見えてくるんだよね。それはすごくおもしろい。アカデミーでも、子どもたちや学生と、同じ波に乗っているときがあるわけよ。しかも、毎回じゃない。うまくいかない波ばっかりなんだけど、たまに一緒に乗れる方が、やった!って思うじゃん。これがさ、毎回パーフェクトな波だったら、やりたいと思ったことが全部できちゃう環境だったら、多分飽きてるよ。
――ナバさんって、スパーンって道を示してくれるイメージがあったんです。
ナバ:それはあるよ。でもそれを選ぶかどうかは本人次第だよね。例えば水場に馬を連れて行くことはできるけど、飲むのは馬なわけでしょ?飲ませることはできない。水場はここだよ!までは言うよ。無理やり連れて行くかもしれないけど、それ以上は言わないかなあ。そもそも喉が渇いていないと飲まないしね。最初はインタープリテーションを教えようと思ったけど、俺ができることってなんだろうって思うと、場を提供するか、俺が一生懸命やっているのを見せることしかできないじゃない。あとは、俺のネットワークの人とつなぐとかね。教えるって言うよりも、学生が自分で掴んでいくしかないよね。
――これからやりたいことって、どんなことですか?
ナバ:今年52歳になるから、そろそろ自分の好きなことだけをやりたい。海の近くで馬を飼って、みんながいつでも集まれるような場所を作りたい。キャンプ場もいいよね。ジャングルの奥地の村の真ん中にある、でっかい広場みたいなかんじ。そこですべてのことが起きているわけだよ。夫婦げんかも、子どもたちが遊んでいるのも、勉強しているのも、全部その中にまざっている。多分それが動物としての人間の本来の姿なんだろうなって思うし、そんな健全な場所ってないんじゃないかな。そういう空間を森に作れば、結構いろんな課題は解決されるんじゃないかなって思っている。いろんな化学変化が起きるし、人とのつながりや、新しい価値観や、なにそれ!?みたいなことが起きる。そんな楽しいことってないよね。やりたいことは尽きない。
――アカデミーにこれからどうなってほしいですか?
ナバ:アカデミーは思いっきり変えた方がおもしろいだろうなって思う。20年間の蓄積もいいけど、20年経ったものって古い。新しい学校の定義になるように、もっと大胆に変化していけると思っている。例えばエコビレッジにするとか、日々の暮らしの中で課題にぶちあたったときに座学が始まるとか。そういう学校になったらおもしろいなって。学生も夜遅くまでいるんだから、ここに住んだらいいんだよ。こんなに楽しい学校はないんだから、イギリスのシューマッハーカレッジのように、2年間フルに使いながら、暮らしをしながら、同じ釜の飯を食いながら学んだらいいんじゃない。学校の外に住みたい人もいるだろうから、自分でチョイスができればいいと思う。そういう場になっていったらいいよね。
インタビュアー 森 日香留(森と木のクリエーター科 林業専攻)