先生も学生も、互いに学びあう
谷口 吾郎(環境教育専攻)
環境教育専攻の谷口先生は、アカデミーに来て今年で2年目。日々悩みながらも、学生に「教える」のではなくて、同じ目線に立って互いに学び合いながら、これからの教育のあり方を探求しています。いい学び合いがあっちでもこっちでも生まれる未来は、アカデミーから広がっていくのかも!?
わんぱく少年、家出をする
――谷口先生はどんな幼少期でしたか?
谷口:小学校3年生まで、群馬県前橋市で育ちました。すぐ近くにあった祖父母の家には、屋敷林っていう風よけみたいなちょっとした森があって、その中に家や畑があったり、庭や竹林、鶏小屋があったりしたんです。その祖父母の家が大好きで、子どもの頃は毎日遊びまくっていました。穴を掘ったり、水を流したり、火遊びをしたり、屋根の上から飛び降りたり、とにかくやんちゃでわんぱくでしたね。泥だらけ、傷だらけ、鼻水たらして、ほんと汚かったです。あとは戦隊もののヒーローにあこがれていて、悪者をやっつけて世界を救うんだ!って本気で思っていました。でもまわりからは、お前がいちばんやんちゃで手に負えない奴だろって思われていたんです。僕は4人兄弟の3番目なんだけど、兄と姉には結構やっつけられっぱなしでしたね。10歳のときに埼玉県の花園町っていう、群馬寄りの田舎の方に引っ越したんですけど、小学校高学年まで「かめはめ波」が本当に出せるんじゃないかって練習しているような子どもでした。
幼少期の谷口先生
――どうやって進路を決めたんですか?
谷口:中学校まではスポーツも勉強も好きで、わりと順調だったんだけど、高校に入って勉強についていけなくなったのと、社会がなんとなく見えてきて、なんかいやだなって思いはじめたんです。両親は、「まずはいい大学に入るのが、あなたにとって良いこと」って思っていて、でも自分はどうしてもそこには乗りたくなかった。それで家族ともうまくいかなくて、家を出たくてしょうがなかったんです。だから、高校を卒業したら仕事をしたいって親に願い出たんですけど、そんな甘いことを言うな、勉強から逃げているだけじゃないかと言われて、強引に受験を強いられました。そこから飛び出すほどの勇気もなくて、もんもんとしていたときに、1997年に島根県沖で重油タンカーが座礁して、日本海側の沿岸に大量の重油が流れ着いた事故があったんです。その重油を取り除くのに、人の手でぬぐっていくしか方法がなくて、そのためのボランティアを募集していました。テレビで見て、これだ!と思って、ボランティアに行くために家を飛び出しました。
――ボランティアに行くことは反対されなかったんですか?
谷口:いや、大反対ですよ。そんなものに行ってどうするんだ、行くんだったら縁切るぞって言われたんだけど、それでも行きますって言って、リュック背負って東京に出て、東京から深夜バスで北陸に行きました。ああこれで、親子の縁が切れたんだなって思ったけれど、もうね、家にいるのが限界だったんだと思う。でも振り返ると、このとき家を出たのはすごくよかったなって思っています。
谷口:ボランティアに行って、そこではじめて自分の身の回り以外のいろんな大人に出会いました。自然や地域を守るためにたくさんの人が集まっていて、こういうことを本気でやっている人たちがいるんだって知ったんです。それにすごく刺激を受けて、じゃあ自分も何か出来るんじゃないかって思いはじめました。それで、たまたまボランティアの中に美大の学生がいて、その人と話をしていく中で、絵で表現する方法だったら、自分も社会に対して何かメッセージを伝えことができるんじゃないかなって思いこんでしまったんです(笑)。絵を描くのは好きだったんで、じゃあ美大に行って絵を学ぼうと思いました。思い込んだらのめり込むタイプなので、その後は素直に絵の勉強に没頭して、美大に入りました。家を出てから2カ月帰らなかったので、親も半分あきらめていて、そこまで言うなら頑張れって最終的には応援してくれましたね。
「あ、僕、こっちだな」
――美術から環境教育に関心が移ったきっかけはなんですか?
谷口:大学に行くちょっと前なんですけど、僕の大好きだった祖父母の家の屋敷林や畑が、相続とかの複雑な事情で全部駐車場に変わっちゃったんです。自分にとって本当に大事な場所だったので、思った以上にショックが大きくて、それが心のどこかにずーっとつっかえたままだったんですよ。それと、僕の通っていた大学は東京のちょっと外れたとこにあったんですけど、そこでも畑がどんどんつぶされて駐車場や住宅地に変わっていく様子を目の当たりにしたんです。そのとき、これは今どうにかしないといけないって思いました。減っていく現状は、実はゆるやかに進んでいくから、気がついたときにはほぼなくなっている。美大のときは、それをどうやったらビジュアル化できるか、どうやったら人に伝えられるかを一生懸命考えていました。そこから、どうしたら環境が変わっていくことを止められるのか、どうしたら町の中の緑が守られるのかをもっと学びたいってがむしゃらに思ってしまって、美大卒業後は大学院に進学しました。
――大学院はどんなところだったんですか?
谷口:千葉大の園芸学部に進学して、公園とか都市の中の緑地などの計画やデザインを学べるコースに入りました。でも、あてにしていた先生に、もう都市の農地の研究はやっても仕方ないよって言われて、ガーンってなったんです。なくなるものはなくなるし、守られるものは守られるって結論が出ていた。それで目標がなくなっちゃって、1年休学して、造園系の出版社や母校の美大で働きながら、しばらくふらっふらしていました。
谷口:それで1年休学して、そのあと復学したんですけど、それと同時に都市公園でアルバイトをはじめたんです。そのきっかけが、復学するちょっと前なんですけど、インタープリテーションって言葉を知ったんです。何かを「教える」じゃなくて、寄り添いながら何かを感じ取ってもらうとか、主体的に何かに気づいてもらうとか、そういうものの伝え方にすごく共感したんです。僕自身、好奇心は強いんだけど、ものごとを覚えるのが苦手だったんですよ。でも、本気で感動したこととか、自分が見つけたものとか、あー!これってそういうことだったのかー!って腑に落ちたこととか、与えられたものじゃなくて自分の中から生まれてきたものは覚えているんですよね。そういう自分が体感的に思っていたことと、インタープリテーションの手法で言っていることがすごくカチッときて、それで「あ、僕こっちだな」って思いました。実はそのインタープリテーションは、以前アカデミーで教員をしていた小林毅さんという、環境教育のパイオニア的存在の人が言っていた言葉なんです。そこからインタープリテーションをもっと知りたいなと思って、東京都足立区に都市農業公園っていう、有機農業をやっている都市公園があるんですけど、小林毅さんが代表をしていた自然教育研究センターという会社が、その公園内の解説業務を受託していたんです。そこでアルバイトをはじめました。
谷口:それと、僕は美大にはいたんですけど、デザイナーとかクリエーターに対して、ちょっと斜めな気持ちで見ていたんですよ。作るのはいいけど、作りっぱなし。いいもの作りました、かっこいいでしょ、機能的でしょって言うけど、作るだけ作ってあとはよろしくねっていうのはいやだなって思っていたんです。都市公園も、公園ができてから植物も育つし、生態系も育っていく。どんどん変わっていくから、作ることよりも作ったあとの方が大事なんじゃないかって思ったんですよね。公園が出来上がってからそれをより良くしていったり、来てくれた人や地域とより良い関係を育てていったりするのって、すごくクリエイティブだなって思いました。それで、大学院に戻ってから週の半分くらいはバイトをしながら、都市公園と地域の人がどう関わり合うと良いのかを研究しました。卒業後は、自然教育研究センターに入りたくて、そのまんま居座る感じで強引にもぐりこみました。
――自然教育研究センターでは、どんなお仕事をしていたんですか?
谷口:最初に配属されたのは足立区の桑袋ビオトープ公園で、そこで自然解説員を5~6年やっていました。来園した人に自然情報を提供したり、自然素材でクラフトをしてみようとか、池の生きものを観察してみようとか、水質浄化の仕組みを作ってみようとか、そういう自然体験プログラムをやったり、ボランティアの受入れ制度を作って一緒に活動したりしていました。あとは、美大でデザインもやっていたので、展示物も作っていました。
――自然の知識はあったんですか?
谷口:ほぼなかったです(笑)。知っている鳥はスズメとカラスとツバメと…みたいなレベルからスタートしました。でも逆にそれが強みにもなったんですよ。知識だけで、これはこういう生態ですよって教えるんじゃなくて、遊びに来た子どもたちと一緒に、「あれなんだろうね?ちょっと一緒に調べてみよっか!」って言って、一緒に図鑑を広げて調べていました。そこからだんだん知識を身に付けていったかな。だから自然の専門家ではないけれど、一緒に調べる専門家ではあったのかもしれない。一緒に調べてみて、答えにたどり着くこともすごくうれしいけど、それよりも、なんか不思議だねとか、なんだろこれ!おもしろい!とか、そういう子どもたちの気持ちや探求心に寄り添うことの方が大事かなと思っていました。
――都市公園で自然と人をつなぐことをしていて、それによって社会がこう変わったらいいなって考えていましたか?
谷口:社会が変わったらいいなっていうのは常に思っていて、本当の意味で持続可能な社会に変わっていくためには、例えば公園に来てくれた人が自然への関心がゼロだとしても、「自然ってなんかよくわからないけどちょっとおもしろいね」って思ってもらえるような手助けをする。それをたくさんの人に続けていくことで、だんだんボトムアップされていって、公園を取り巻く地域や世の中が豊かになっていくと思っていました。だから、自分はそういう緑に関わる場から社会を変えていこうって思っていましたね。今もそう思っています。
思ったときがはじめるタイミング!
――自然教育研究センターには何年くらいいたんですか?
谷口:10年くらいかな?桑袋ビオトープ公園以外にもいろんな公園に配属されました。でも、本当はずっと農業公園で働きたかったんですよ。農と人は離れすぎているからもうちょっと近づければいいなってずっと思っていたんですけど、どうしても農業公園にたどりつけなかった。あるとき「街中で農業公園を立ち上げるんだけど、一緒に働かない?」って言ってくれた人がいたんです。NPOだったんですけど、その話を聞いて「あ、やりたい!」って思って、それで会社を辞めました。でもNPOではなかなかうまくいかなくて、結局1年でそこは抜けて、都市部の公園を受託して管理している造園会社で4年ほど働きました。
谷口:造園会社での4年間もとてもやりがいがあったんですけど、美大の同級生だったアカデミーの木工専攻の渡辺圭先生から「環境教育の先生の募集が出るけど、そういえば吾郎ちゃんって環境教育やっていたよね?一応情報を送っておくね」ってメールが来たんです。そのちょっと前に圭くんがアカデミーの先生になったって聞いていて、アカデミーは僕の恩師の小林毅さんが教えていた学校だったからすごく興味があったので、今度絶対遊びに行くねって言っていたんですよ。教員募集の話を聞いて、最初はどうかなあ…と思ったんだけど、やっぱり小林さんのこともあって縁を感じて、好奇心の方が勝ってしまい、僕もチャレンジのつもりで採用試験を受けました。
――アカデミーに来てみてどうでしたか?
谷口:けっこう打ちのめされましたね。圧倒的におもしろい人たちがいっぱいいるし、この人たちの中で戦うのか…って思ったし、学生たちにいい学びを作るためには自分も光らなきゃっていう焦りもあったし。学生たちもいろんな人生経験を積んでいて、僕が何かを教えるというよりは、本当に教えてもらうことの方が多いし、あれ?教えるってなんだっけ?教員ってなんだっけ?ってなっちゃったんですよ。今、アカデミーに来て2年目なんですけど、最近「そういえば、一緒に学べばいいんだ」って気が付いたんです。インタープリテーションってそもそも何かを教えるんじゃなくて、体験から学ぶこと、楽しく学ぶこと、互いに学ぶことを大事にしていて、だから、上に立って教えるんじゃなくて、輪の中に一緒に入って対話しながら互いに学び合っていく。そんな場を作っていく。それでいいんだよなって思ったんです。それができるのが自分かなって。もちろん伝えられることもあるんだけど、でも背伸びしないで、悩むこともポジティブにやっています。
――これからどんなことをアカデミーでやっていきたいですか?
谷口:いま環境教育専攻の中で、「学び方」を変えていこうという動きがあるんです。これまでは、知識やミニ体験を詰め込むことに偏りがちだったので、もうすこし継続的で、暮らしの中で感じたリアルな実感を元に学びを作ったり、学び手が主体的に探究したり、互いに学び合えたり、そうゆう学びの場を作りたいし、学びの場を作れる人を育てていきたいですね。学ぶことが楽しくて、ウキウキしながら学べる場がいろんなところでポンって生まれたら、世の中も良くなっていくんじゃないかなって思うんですよね。それを実現できるのがアカデミーなんじゃないかなって思っています。
――アカデミーに入学したい人、森に関わる仕事をはじめたい人に向けて、メッセージをお願いします!
谷口:すごくシンプルだけど、体験からしか学べないし、やってみないと体験はできない。やってみたいなって思ったときがはじめるタイミングだと思う。おもしろいことしかない学校なので、たくさん楽しんで、たくさん悩んでください。悩んだときは、ドキドキしながらやってみる方向に進んでみると、きっと新しい世界が広がるよって伝えたいですね。あと、アカデミーは本当にいろんな人がまざりあう場所。人生のいろんなステージの人がいるから、たくさん対話して、たくさん互いに学び合って、仲間を作ってほしいなと思います。
インタビュアー 森 日香留(森と木のクリエーター科 林業専攻)