岐阜新聞コラム「素描」を執筆しました(上)
1〜2月にかけて、岐阜新聞のコラム「素描」を毎週1回執筆させていただきました。
岐阜新聞社から森林文化アカデミーウェブサイトへの転載許可をいただいたので、1月分の4回をここに掲載します。
文・写真:久津輪 雅(木工・教授)
第1回(1月4日掲載)
グリーンウッドワークを社会へ!
「みずみずしい!」「削りやすい!」切りたての生木を手道具で削るグリーンウッドワークを初めて体験した人から歓声が上がる。身近な森の木でスプーンや器や椅子を作って楽しむ人の輪が広がっている。
私は県立の専門学校、森林文化アカデミーの木工教員。教員になる前はイギリスで家具を作る職人だった。木工は楽しいけれど、機械は高価、操作は危険、音もうるさい。一般の人が趣味として始めるには敷居が高い工芸だと思っていた。そんな時にイギリスで出合ったのがグリーンウッドワーク。生木だから柔らかく、手道具だから設備もいらず、音も少ない。どこでもできて、森とつながるきっかけにもなる。「森林文化」と名のつく学校で働くことが決まった時、これだ!と思ってイギリスの第一人者から技術を学び、帰国後すぐに授業や市民講座で普及を始めた。
「でも木は乾燥させないと使えないのでは?」「組み立てた後に緩むでしょう?」これは必ず聞かれる質問。でも実は機械が普及する少し前まで、日本でも海外でも生木を削って生活道具を作っていたのだ。昔の人は材を削りながら乾かしたり、縮むと逆に接合部が締まる工夫をしたりと、賢く木を使っていた。
岐阜市の「ぎふ木遊館」では、生木を削って楽しむ講座「スプーンクラブ」を定期的に開催している。「削っていると無心になれる」「気持ちが癒やされる」と好評だ。
木工を職人だけのものからみんなのものに。グリーンウッドワークを楽しめる場を全国の街角に。そして木工を「社会のインフラ」に。それが私の目標なのだ。
第2回(1月11日掲載)
ギリギリで継承できた鵜籠づくり
「鵜籠を作る職人さんがいないと長良川の鵜飼が成り立たなくなる。森林文化アカデミーで何とかできませんか」。鵜飼の研究者からのひと言がきっかけで伝統技術の継承の仕事に関わることになった。2009年のことだ。それまで鵜匠が使う鵜籠を作っていたのは関市の石原文雄さん。当時74歳で後継者なし。森林文化アカデミーでも年に一度竹細工の授業をお願いしていて、今後のことを気にかけていた。
ちょうどその頃、会社を早期退職して竹細工をやりたいという鬼頭伸一さんが入学してきた。当時56歳。それならと石原さんに指導をお願いすると「できない」と仰る。ただでさえ需要が減り生活が厳しいのに、新しい人を路頭に迷わせるようなことはしたくないという責任感からだった。
それでも最後の職人となった人は、心のどこかで技を伝えたいと思っているように感じられた。その直感だけを頼りにお願いに行くこと3回。ついに石原さんは首を縦に振ってくれた。
こうして翌年から技術継承が始まった。鬼頭さんや卒業生でグループを作って石原さんに週1回指導を仰ぎ、まずヒゴ作り、次に簡単な籠。目標の直径70センチの鵜籠は手ごわかった。それでも1年かけて鬼頭さんは何とか鵜籠を編めるまでになった。ほぼ同時期に石原さんは手の不調を訴えて引退。ギリギリで技の継承ができたのだ。
その後も鬼頭さんは練習を続け、別のアカデミー出身者にも鵜籠を教え、14年に晴れて鵜匠2人に鵜籠を納品した。50代から技術を学び、短距離リレーで伝統をつなぐ。これからの時代の先駆けとなる成功例だ。
第3回(1月18日掲載)
エゴノキプロジェクトで和傘を支える
「傘ロクロの材料を出してくれていた方が亡くなりました」。この言葉を聞いて、日本中の和傘生産が途絶えかねないと直感した。相談に来たのは全国で唯一の傘ロクロ職人、長屋一男さん。2012年の春だった。
傘骨をつなぐ要の部品傘ロクロにはエゴノキが使われる。適度な硬さとしなやかさを併せ持つ木だ。かつて和傘の需要が高かった頃、森でエゴノキを選り分けて傘屋へ供給していたのは炭焼き職人たちだった。燃料が炭から石油に変わると森を知り尽くした職人がいなくなり、伝統工芸の現場は材料確保に困ることになった。長屋さんは高齢の林業家に頼んでエゴノキの切り出しをお願いしていたが、最後の綱が切れてしまったのだ。
需要が減ったとはいえ和傘は歌舞伎や祭礼など日本文化に欠かせない。森林文化アカデミーの強みである林業系の人脈を生かして県内各地を探し回り、美濃市の瓢ヶ岳(ふくべがたけ)中腹に良質のエゴノキが群生する森を見つけることができた。「奇跡の森です」と言った長屋さんの表情が忘れられない。
「和傘の危機」との呼びかけに全国から和傘職人が集まってくれ、地元林業関係者やアカデミー学生たちも加わり、1年分の和傘生産に必要なエゴノキをみんなで収穫した。エゴノキプロジェクトの始まりだ。以来アカデミーの授業にも組み入れ、11年続けてきた。
課題もある。増え過ぎたシカがエゴノキの新芽を食べ尽くし、持続的な収穫が困難になった。森を柵で囲うなど対策に乗り出している。道は険しい。でも地道に取り組むことで和傘に関わる人の絆が深まり、笑顔が広がっていると感じるのだ。
第4回(1月25日掲載)
鵜舟造りの技を継ぐ
カンカカ、カンカカ、カンカン・・・舟大工たちは釘を打つ時、独特のリズムを奏でる。中でも美濃市の那須清一さんの釘打ちの音は美しい。戦後間もない頃から父の下で舟を造り始めた。川漁の舟はもちろん、苗を運ぶ田舟、石を運ぶ石舟、家畜を運ぶ牛舟と、物流に舟が欠かせない時代だった。長良川の舟で最も格が高いとされる鵜舟も、2001年頃から任されてきた。
若い頃に弟子も育てた。郡上八幡の桶屋の息子、田尻浩さん。8年通って一人前になり、今は鵜舟造りを引き継いでいる。しかし舟の需要は減り、次の世代がいない。
17年、転機は意外な所から訪れた。アメリカの和船研究者、ダグラス・ブルックスさん。那須さんに鵜舟造りを学びたいと言う。当時85歳の那須さんが一肌脱ぐと言ってくれ、森林文化アカデミーに舟大工小屋を建てて鵜舟を一艘造ることになった。さらに東京文化財研究所が貴重な民俗技術だとして一部始終を記録してくれることに。2カ月間、那須さんの指導でダグラスさんが腕を振るい、鵜舟が見事に完成、技術記録を残すことができた。
その後、2つの動きが立ち上がる。1つは岐阜市や長良川鵜飼保存会による、鵜匠の船頭たちを舟大工に育てる事業。もう1つは民間団体が観光や漁業のための川舟を造ろうという活動。官民の連携会議も始まり、昨年度から鵜匠の船頭と民間の大工が一緒に田尻さんの指導を受け、鵜舟を造る体制が整った。
今、舟大工の卵たちがカンカカ、カンカカと釘を打つ音を響かせている。その音を聞くと何とも胸が弾むのだ。