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2021年08月17日(火)

木工事例調査③「山守資料館」中津川市連携事業

今年も連携協定を結んでいる中津川市の林業振興課にご協力頂き、中津川市の木材産業を巡る木工事例調査を実施しました。中津川市は木曽ヒノキや東濃ヒノキで知られる木材の一大生産地であると同時に、全国でも有数の木工が盛んな地域です。
学生達の目線から報告するレポート第3弾は「山守資料館」です。

2021年7月1日に岐阜県の中津川市加子母(かしも)にある山守資料館で内木哲朗館長にご説明を頂きましたので、以下の通り報告します。

1. 山守資料館

山守資料館

山守資料館の入口

加子母を含む「裏木曽」と呼ばれた地域は、昔から天然林の豊富な地域として知られており、その時々の為政者がまっさきに押さえる土地だったそうです。しかし、江戸時代の1700年ごろには、各地の城の建設などで、大量の木材が消費され「裏木曽」でも木が枯渇してきました。この危機に際し、尾張藩は「裏木曽」の「三浦山三ケ村」の森林を管理させる役職「山守」を創設し、その任を当時の加子母村の「内木家」に課しました。山守資料館の内木館長は内木家の20代目にあたりますが、内木家の10代目から15代目までの6代が「山守」(1730年~1872年)を務めました。

三浦山三ケ村全図

三浦山三ケ村全図

2. 山守の仕事

山守の仕事は、①三浦山の見回り②三ケ村の見回り③盗伐の摘発④住民の屋敷の建設・補修の際の審査(使用禁止の木材が使用されているかどうかを審査)などがありました。山守の創設により、三浦山三ケ村のヒノキなどの伐採は厳しく取り締まられ、森林の蓄積量が回復したそうです。明治維新で「山守」は消滅しましたが、その後も国有林にかわってからも適切に管理され、純粋な意味での原生林ではありませんが天然林更新により現在では、樹齢300年~400年の貴重な「木曽ヒノキ備林」となっています(伊勢神宮の式年遷宮の際に伐採される木はここで伐採されます)。

3. 資料館の古文書

山守を務めていた内木家の当主は、様々なことを記録しており、江戸・明治時代の古文書が約4万点(江戸時代3万点・明治時代1万点)残っており、内木館長が古文書の整理・保存のため御自宅を私設資料館とされたのが「山守資料館」です。古文書の整理・保存・解読のために「徳川林政史研究所」を中心とした研究家によるデータベースの作成などが進められています。大量の文書があるため、全記録のデータベース化と解読の終了は未定とのことです。

4. 山守日記

内木家から見つかった資料の中に、「山守日記」という文献があります。「緩々(ゆるゆる)とした暮らし」がテーマとなっており、山守の仕事のほかにも、当時の人々の生活が記されています。その文面からは精神的に豊かな生活、今で言うところのヒュッゲ(デンマークにおける心地よい時間という意の単語)な生活を垣間見ることができます。日記では、当時の人々の食事風景やお伊勢参りに出かける女性たちの様子までも描写されており、現代人にも共感できる箇所がいくつもありました。山守日記は単純に昔の林業を知りたい人のためだけのものではなく、それぞれが違う捉え方をしながら楽しむことができる資料でした。

山守日記の現代語訳

山守日記の現代語訳

当時の家族の様子

当時の家族の様子を描いたイラスト

5. 加子母の現在と過去

内木館長は中学生に地域の森林や歴史について伝える活動もされています。また、地元の加子母森林組合は地元の木を使ったワークショップを行っており、このような活動は木材や木々を育てる地域の森に関心を持つきっかけになっています。内木館長のお話の中には、木育を学ぶことができる木工専攻にもためになる要素がたくさんありました。

加子母の森は、江戸時代の林業の成功例の1つです。言葉を発しない生き証人である裏木曽の森に代わり、山守資料館は、現代にその知恵を伝えてくれています。今回、文献資料から分かったことを聞き、新たな発見がありました。江戸時代に行われてきた森づくりの手法から、現代の課題を解決するためのヒントを得る。温故知新という言葉の本質に触れた気がします。

内木館長には、長時間にわたり、わかりやすくご説明頂き誠にありがとうございました。

文責:
木工専攻2年 下山みなみ
木工専攻1年 村田篤紀